犬が吠えども、キャラバンは進む。

Biar anjing menggonggong, kafilah tetap berlalu./インドネシアでひとを研究しているある院生の備忘録。

ラマダン断食継続中:断食中に考えたこと

ラマダン月が始まって、はや二週間、今年の断食月も残るところあと半分・・・。

実は、去年の失敗から学びを得て身体を徐々にならすという作戦に出た結果、水なし断食成功してます。慣れって怖いな。

空腹と渇き、煙草欲、慣れてしまえば、なんてことはない感じで耐えられるのですが、なんせ暇なのです。なにか作業をしていたとして、休憩しようとしても横になるくらいしかやることがない。日常生活のどれだけの時間を飲食や飲食に纏わる思考に費やしていたのか、痛感しました。今回は、飲食に纏わる思考時間が空いた代わりに、空腹を感じながら断食中に何を考えていたのか、を記録に残したいと思います。

イスラム断食月ラマダン断食とは何かについては、こちら→サウム 断食 – Islamic Center Japanを参照ください。

 

f:id:gulamerah:20180524225355j:plain*1

断食中に禁止されていること 

さて、イスラムラマダン月に行われる「断食」、実は、飲食だけでなく、娯楽(世俗的なこと)も禁止されてるらしいんです。まぁしかし解釈による違いというものが大きいので、(少なくともインドネシア)一般的には音楽や映画などの娯楽禁止!というのは聞いたことがありませんでした。そこで、私、まじめなので調べました。

以下は日本イスラミックセンターのサウム(断食)中にして良いことと禁止されてることです。

サウム中やってはいけないこと、望ましくないこと

サウムを始めたら、昼の間は一切の飲食や喫煙、性行為をしてはいけません。一切のとは、例え一粒の米やウドゥーのときに口をすすいだ水の一滴ものどを通ってはいけないと言うことです。さらに口に入れたものを呑み込んだり、鼻や口から、あるいは注射器や座薬によって体内に薬や栄養剤を入れることもサウムを破ることになります。

しかしうっかりとサウム中であることを忘れていて、無意識に飲食したり、何かを口に入れたりした場合、気が付いた時点ですぐにやめ、そのままサウムを続ければ良いです。香水、こう薬、化粧クリーム、外用薬の使用、歯を磨いて口を軽くすすぐこと、無意識に唾を飲み込むこと、身体を洗うことなどは、サウムを破ることになりません。

また、サウムを直接破ることにはなりませんが、けんかや議論、他人の悪口や猥談などはサウムの精神的な効果を落とすので慎むようにします。イスラームのサウムは単に食べないと言うことではないのです。食事をしないことによる空いた時間を、こんな悪い方向に向けないように気を付けたいものです。

サウム中するべきこと、許されること

ラマダーン月はサウムという行を通じて、自分を精神的に磨く月ですから、普段よりもよい生活習慣を心がけるべきです。預言者ムハンマド(彼の上に祝福と平安あれ)は次のようにおっしゃっています。

ラマダーン月、祝福の月が近づいてきた。その月の間には、アッラーはあなたたちの方を向かれ、かれの特別の慈悲を下される。またあなたたちの過ちを許され、祈りを受け入れられる。あなたちが良い行ないをお互いに競い合うのをご覧になり、天使たちの前であなたたちのことを自慢される。だからアッラーに対し、自分の良い所を見せなさい。真に最も哀れで不運な者は、この月にアッラーの慈悲にあずかれなかった者である」

そこでこの月には、普段よりずっと多くの時間を崇神行為に費やすべきです。まず、ラマダーン月とクルアーンには密接な関係があります。クルアーンの最初の啓示はこの月に下されました。そこでラマダーン月に一度、クルアーンの始めから終わりまで読破することが強く薦められています。

次に、義務のサラートは当然のこと、スンナのサラートやナフル(任意)のサラートもたくさん行なうべきです。ズィクル(アッラーの御名の唱念)やドゥアー(祈願)もいつもより多く行なうよう心がけます。

またサウムの目的の一つは、飢えや貧困とはどんなものかを体験して貧しい人に対する親近感を育てることにあります。ですから、施しをすることはサウムの目的に強くつながっていて、ムスリムは余裕のある範囲で、できるだけ多くの施しをすることが薦められます。たとえ金銭でなくても、サウムを解くときの食事に人を招いて一緒に食べることもその一環です。

また、多くの人がザカートの決算日をラマダーン月にしています。一年の貯蓄の2.5パーセントを貧しいムスリムに施します。サウム中でも仕事をしたり買い物をしたり、禁じられていること以外は普通の生活をしてもかまいません。ただ、ラマダーンというこの聖なる月を良い機会に、仕事などの日常に全てをかけるのではなく、人間が生きている目的やアッラーの偉大さなどに思いを巡らせ、自分の人生をひとまず立ち止まってゆっくりと考えてみることが大切です。ラマダーン月というのは、まさにそういう精神的な意味のある月なのですから。

[サウム 断食 – Islamic Center Japan]

音楽禁止という解釈

この月には、普段よりずっと多くの時間を崇神行為に費やすべき

音楽を含めた娯楽を控えるべきという解釈は、おそらくラマダン月を聖なる月として普段より信仰について考え、祈りに時間を使うべき、というところからきてるのだろうと思われます。上記に記載したラマダン中の禁止事項と成すべきこと、の図にもあるように、娯楽は、「Useless Activities/不要な行為(Don't waste your time on useless activities/不要な行為で時間を無駄にしないこと)」と解釈されるようです。

確かに、私自身飲食喫煙を控えただけでも、随分な空き時間が増えることを実感しました。ラマダン月はその空いた時間を祈りに捧げるべきとされているのですね。

私は祈りこそしませんでしたが、「イスラムの断食」ということについてベットに横になりながら考えていました。(空腹で疲弊するが眠ることもできない)

「音楽も禁止らしいぞ」「そういえば保守派プロテスタントにもロックミュージックとか聞いちゃいけないみたいな教えを持つひとたちがいたな・・・。」「なんで宗教は音楽を禁止するのかな・・・」等々。

音楽のない無色透明で無機質な世界

音楽が禁止という情報を得たので、無音の部屋でしばらく横になってみる。

無音、そのまま目を閉じて、じっとしてみる。寮の白い壁が、ことさらに白く感じられて、自身が透明になっていくような、それでいて呼吸音が身体に響いているのが聞こえる。

ふと目の前に浮かんできた情景がある。「禁じられた果実(Kielletty hedelmä)*2」というフィンランド映画の一コマだ。これは、フィンランドの保守的なキリスト教プロテスタントコミュニティに暮らす少女達のひと夏の逃避行(ヘルシンキでの数週間)を描いた映画である。

友人を無事に逃避行から連れ戻したラーケルは、自宅で彼女がこれまでの16年間ずっとそうしてきたように無音の台所で皿を洗っている。台所の戸棚には、緊急時用のラジオが置かれていた。彼女はラジオのスイッチに手を伸ばし、軽快なロック音楽が無音で無機質だった台所に流れ出す。無表情で家事に従事していたラーケルの顔もほころび、彼女は台所で静かに踊り出す。

お酒、異性、派手な服装、メイク、ダンス、そして音楽が禁止された世界から初めに失踪した友人のマリアは、逃避行前に「もっと世界を知りたい、もっと世界を感じたい。」というようなことを口走った。何も知らない、何も感じない、何もない、生きてるってもっと何かを、世界を感じることなんじゃないの?彼女はそう思ってコミュニティから逃亡する。

音楽のない世界は、無色透明の無機質な世界だ。色のない、世界。なぜだかはわからない、無音は、色をひどく褪せさせる。イヤホンを耳に入れ、再生ボタンをタップしてみて、わかったことがある。

脳に流れ込む音楽は、まさに色彩そのものだった。

僕たちは世界を彩る色になれるか

神様*3が、初めてこの世界に在ろうとした時、きっとそこには神様が在るだけで、きっとあんな風に、無色透明の無機質な世界だったに違いない。そこに自然や動物が現れて、人間が現れた。「(誤解を助長しそうなのであえて言いかえるとすれば)この世界に初めて存在の意志を持って存在した何か」が、その後の存在を望み、連鎖的に我々をこの世界に存在させたとするならば、きっとその何か/誰かは、ちょっと寂しかったのだろうと思う。

そして、ペンキのバケツをぶちまけるように、あるいは繊細に刺繍を編みこむように、存在というものを創り出していったのではないか。その存在は、生きるために音をたてる、呼吸音、咀嚼音、排泄音、移動音、鳴き声、言語、そして歌。最終的に人間は楽器をつくりだして、「音楽」を奏でるようになった。世界は色彩豊かに息づいていく。

絵具を混ぜて色を作ったことのあるヒトなら、すぐに理解すると思う。混ざり過ぎた多色の末路は「黒」である。

照明をいじったころのあるヒトなら、知っていると思う。混ざり過ぎた多色の光は、「白(無色)」である。

おそらく私たちは「目に見える在る存在」は、絵具であり、おそらく「目に見え無い存在」は、 光である。

私たちは、無色透明な世界を彩る色である。音楽は私たちの創りだした新しい色なのかもしれない。人間の鮮やかな感情が旋律と言語、歌声によって一度に表現される。よく考えてみるとこれはすごいことなのだ、「一曲」の時間の中でどれだけ複眼的に人間の感情が描かれているか。音楽とは、奇跡的な手法で立体的に物語を描き出す手法なのである。

音楽って、すごいな。

www.youtube.com

*1:Ramadan in the Workplace | HuffPost

*2:戒律の厳しいキリスト教原理主義の村に暮らす18歳のラーケルとマリア。普通の10代らしい生活への憧れと好奇心からマリアは都会のヘルシンキへ向かい、彼女を誘惑から守るよう命じられたラーケルも後を追った。神の名の下に質素で厳格な環境で暮らしていた青春期の少女たちにとって、大都会で目にするもの、体験するものは、どれもが刺激的でまぶしい輝きを放っていた。信仰と欲望の狭間で葛藤するふたりの少女の心情をリアルに描き出した意欲作。[フィンランド気鋭の映画7作品を特集上映『フィンランド映画祭』開幕 | ORICON NEWS]

*3:厳密には神道で言うところの神々ではなく、『旧約聖書』の創世記に在る「エロヒム」を想定する

Belanja Ramadan!【ラマダン月のお買い物!】

こんばんは。今年もまたラマダン月が始まりました!

昨晩、去年サフール《夜明け前の朝食》を一緒に食べた同じ寮の友達と、「ラマダンだねー!」「もう一年経ったってこと?!」という話をしましたが、

ということは、私がインドネシアに来てから、一年経過したということです。

はやかったような、長かったような・・・。なんとも感慨深いものですね。

去年のラマダン断食の記事には、ラマダンの概要など合わせてまとめてありますので気になる方はぜひこちらからお読みください。

gulamerah.hatenadiary.com

去年はどうやらいきなり水も煙草もなしの、ガチ断食に挑戦して体調を崩したようです。熱が出たことは覚えていたけど、頭痛までしていたことはすっかり忘れていましたね。忘却には勝てない。こういう記録は大事です。

今年は、5月17日から6月14日までがイスラムラマダン月となってます。

私はというと、初日しょっぱなからサフールを食べはぐりつつ、寝坊し、大学の約束時間が迫る中、12時くらいまで何も食べていなかったので、そのまま水ありタバコありでなんちゃって断食をしています。水ありだとかなり楽です・・・。

今年の目標は徐々に体を慣らしつつ、最終的には水無断食ができるようになることですかね。断食の記録は去年しましたので、今年は、断食月のお買い物ということで、スーパーマーケットの雰囲気を記録に残したいと思います。私ね、実は結構このラマダンのお祭り感好きです。

ラマダン月のスーパーで見られるラマダンらしい商品 

まず、この時期限定で見られる商品でめぼしいもの・・・・

f:id:gulamerah:20180517201852j:plain

クルマ/Kurma

日本では「デーツ」と言われる。ナツメヤシの実。レーズンや干し柿のような甘い味がする*1。私は砂糖漬けだと思ってたんですが、砂糖を使わず干しただけで甘くなるようです・・・!断食明けに食べると幸せな気分になれる。

f:id:gulamerah:20180517201909j:plain

 

パルセル/Parsel

ラマダン明けに友達や同僚などに贈る。日本でいうお歳暮とかお年賀とかに近い贈与慣習のための贈り物。これは、Rp.300.000(2500円くらい)ですが、もっと大きいRp.400.000(3500円くらい)のもありました。ただのお菓子の詰め合わせですが、高い。

f:id:gulamerah:20180517201927j:plain

 

爆竹/Tasbih

ラマダン月が明けるときのお祭り騒ぎに使う。ラマダンが半分過ぎた頃から、断食明けに聞こえ始めることがある。

f:id:gulamerah:20180517202005j:plainなんだろう、すごく見たことのある黄色い髪の少年が印刷されてる気がする。。。。、

ラマダン商戦って絶対あると思う

f:id:gulamerah:20180517202021j:plain

ムスリムが多い社会ってこの時期ものすごい繁忙期だと思うんですね。

この写真、平日の昼間ですよ。この時間はいつも空いているのに・・・。

クリスマス正月と日本の年末年始、消費者の購買意欲が増す様に、ラマダンからレバラン休暇にかけてみなさんほんとによく買うと思います。

普段外食が多いインドネシアですが、サフールは大体おうちで食べますし、その時間にやってるお店はありませんから、みなさん買いだめするわけです。

f:id:gulamerah:20180517202100j:plain

断食してる最中に買い物してるってのもあるかもしれないですけど・・・。

私もなんかレジ横の「おーい、お茶」をなぜか2本も買ってしまいました。

f:id:gulamerah:20180517202042j:plain

去年の記録で、「お腹が減っている時に買い物をしてはいけない」と書きましたけど、断食月ですから、仕方ないですね、はい。

あとなんか、お買い物してる皆さん本当に楽しそう。楽しいのは良いことですね。

今日の断食明けメニュー

今日の断食明けのメニューは、路肩で売っていたEs Buwah(フルーツ・ポンチ)です。

お母さんがムケナ姿で売っていたので、かわいくてつい写真を撮らせてもらっちゃいました。

f:id:gulamerah:20180517201834j:plain

本当はSoto Ayan(鶏肉スープ)を食べたかったんですけど、スーパーで鶏肉が売り切れていたので断念。どうしようかなと思っていたんですが、

断食明けにお部屋の外に出たら、寮のお手伝いさんにOsen-osen(豆腐や鶏肉などを唐辛子等で味付けしたもの)とご飯をいただきました。ありがたやー!

ムスリマではない私がラマダンに参加する理由

それはね、端的に言うとBuka Puwasa(断食明け)が楽しいからです。

加えて「日常的にこういった苦しい状況にいるひとの気持ちを理解する」ためという誰かから聞いたラマダン断食の理由が、素敵だと思うからです。

こういう苦しい経験を社会で共有するのは良いことだなと思うからです。やっぱり人の苦しみって、経験してみなきゃわからないです。

苦しみの共有って、ずーっとみんなで苦しい、我慢大会みたいなのは良くないと思います。しかし、苦しみを共有し理解することで、人にやさしくできたり、この社会を改善しようと思えるならとても良いことだと思うのです。苦しみを自己責任と一蹴されてしまう社会よりも、苦しみを共感してくれる社会の方が、救われませんか?

しかし、体調不良になってまで無理をしないというもの大切かなっと思います。もし、私みたいにムスリマじゃないけど参加してみようってひとは、お水ありから始めることをお勧めします。

加えて、日本在住ムスリムの皆さま、本当に本当にお疲れ様です・・・。一ヶ月、無事に乗り切ってください。もし、あなたの身近に断食してる方がいらっしゃったら心の隅でよいので、イスラム社会におけるラマダン行事について思い出してもらえたら嬉しいです。

まとめ

  • ラマダン月のスーパーはラマダンらしい商品がたくさんあって楽しい
  • イスラム社会のラマダン月は繁忙期
  • Es Buwahはホント美味しいね。
  • ムスリマじゃないけど、人に優しくできる気持ちを学ぶために断食してます。
  • 水無への挑戦はまだ無理

 

外からアザーンが聞こえてきました。

ということは、断食明けですね!Buka Puwasa!わーい。

 

それでは、今年も、Selamat Ramadan! Berpuasa!

Selamat Menjalankan Puasa Ramadhan 1439H/2018!

『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』から考える「見栄」の人間らしさについて

f:id:gulamerah:20171201161739j:plain

アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックの作品の一つ、非常に有名なSF小説です。1968年に初版原作(英語)が出版され、その一年後1969年には日本語訳が出版されています。原題や邦訳題のパロディなどが多く見られることからもSF作品として一般的にかなり人気の高い作品だということがわかります。むしろパロディから原作を知ったというひとも多いのではないでしょうか。私もその一人です。私は、初音ミクというボーカロイドを使用した作曲者ささくれPのアルバムタイトル「ボーカロイドは不死鳥の夢をみるか」から本作品を知りました。

 今回は、この小説に描かれる「見栄」、そしてインドネシアで体験された「見栄」に関する話などから、人間らしさとしての「見栄*1を考えてみたいと思います。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか』に描かれる「電気羊」と人間の「見栄」

 この小説の主人公が生きる荒廃した地球では「生物」がとても珍しく、高価なものとなっている。それをペット愛玩動物として所持するということは、その購入費、維持費を踏まえると莫大な無駄金あるいは余裕の証明である。しかし、「電気羊」はそういった本物の生物を所持できない輩が所持する偽造品なのである。つまり、「電気羊」は「生物を愛玩具として所持し、莫大な無駄金の消費をしている人間であると周囲を欺くための製品」なのである。なぜそこまでして周囲を欺く必要があるのか、その根拠となる感情が見栄である。自分の実像、現実とは異なる虚像の実現を手助けする製品、それが「電気羊」なのである。見栄という隙間のような人間感情に付け込んだ巧妙な製品である。修理の際は「動物病院」と外装を偽ったトラックで回収に出向いてくれる手の込みようである。

 主人公の妻は、「電気羊しか持てないような私たち」とか、あるいは電気羊しか買えない夫を「甲斐性がない」といった感じで責め立てたりする。しかし、電気羊だって安くない、壊れた時なんかは周囲にばれやしないかと気を揉んだりする。見栄を張るがために問題が増えているというのも大変馬鹿らしく、興味深い。これではまるで「悩みの種」を買ったようではないか。虚像を取り繕うのも楽じゃない、見栄を張るのだって楽ではない、それ相応の努力と金が必要なのである。

インドネシアのある村における「見栄」※友人談

 私のある友人は、知り合いにお金を貸した。なにか仕事、あるいは事業に関する借金であったようだ。しかし、結論から言うと、貸した金は戻ってこなかったし、一部は事業に使用されることなく、レバラン休暇の際に着る衣装代になっていたらしい。

 新しい服代に友人が出資したつもりで出した金が使われたかどうかはさておき*2、友人はひどく消沈しているようだった。お金が返ってこないということよりも、異なる目的で消費されてしまったということに対して憤りを感じているようだった。一応、新調された服を見て知人を問い詰めたらしいが、「去年と同じ服では恥ずかしい」という答えが返ってきたらしい。まぁ、要するに見栄である。個人的にとはいえ事業資金として借りたはずの金を服代に回さなければ服を新調できない経済状況で、あえて服を新調するという虚像の実現である。現実にそぐわない虚像の実現に、友人の金が使われた(と友人自身は感じている)のである。

 友人も大金持ちなわけではないので、事業資金などというまとまったお金をかき集めるのに多少苦労していた。にもかかわらず、というわけだ。

 しかし、この話にはもうひとり見栄を張った人がいる。それは金を貸した友人である。苦労しなければ出せないような額の金を貸す、というのもまた見栄である。なければないと、貸せないと現実のままに対応すればよいところを、あえて貸したわけだから、無意識に「それぐらいの金を貸せる余裕のある人」という虚像を実現するという見栄を張ったわけである。そしてその見栄が、その後の憤りを増幅させている気もする。

「見栄」という人間らしさ

 見栄というのは、なんと滑稽であろうか。見栄とは虚像の実現願望である。これが理想の実現願望であったら、それは人生の指針になりえるような重要な願望である。虚像の実現と理想の実現は一体何が異なるのだろうか。

 虚像と理想、似通ってはいるが、やはり全然違う。それぞれが実現した後に現在する状況の違いは、明らかである。虚像は実現しても虚像のままであり、理想は実現すれば現実になる。「見栄」と言われてしまうような滑稽な実現努力は、おそらく虚像の実現努力のことを指している。虚像と理想を見間違えるひとは多い、虚像に踊らされないようにしたいものだ。多くの人がその人生の大半を虚像の実現のためにあくせく努力をしているのを見ていると、吐き気がしてくる。虚像と理想の取り違えは、周囲にも良い影響をもたらさないので早急にやめていただきたい。

 しかし、『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』において描かれる「見栄」は、人間らしさの象徴である。「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」という象徴的な問いは、つまり、人間らしくないアンドロイドが、「電気羊」という見栄を根拠とした価値観によって作製された物体に対して、それを所持したいという願望(夢)を抱くのか?という問いである。

 読者は、前半で主人公の電気羊とそれに纏わる一連の行動を異世界の「謎の価値観」を笑いながらも、後半になるにつれこの非合理的な生産性のない滑稽な願望に人間らしさという価値を認めることになるだろう。そして、最後に発せられる「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」という主人公の問い、そこから理解される人間らしさに関する危機感に共感するのである。人間らしさ(見栄を根拠とした電気羊に対する所持欲という非合理的な願望、価値観)というものが、アンドロイドという人間らしくなかったはずの何かによって再現された場合、私たちの「人間らしさ」はもはや人間だけのものではなくなるのだ。アンドロイドが見栄を張る、その滑稽さは私たちにとって全く愉快ではない。その非合理性を、譲るわけにはいかないのである。

 そう考えると友人がインドネシアで体験した「見栄」による一連の出来事は、友人の納得できずに不快な気分なったという彼の感情を含めて、とても人間らしい話なのではないだろうか。私たちは、その人間らしさのせいで日々七転八倒しながら生きている。不要な鬱憤を溜めこんだり、物に八つ当たりして壊したり、憂鬱になったりする。人間らしさというと(これもある種の人間の見栄で)非合理的な「優しさ」とか「幸せ」とか俗にいう「道徳」を論いたくなるが、しかし、「見栄」のような滑稽な感情も、人間らしさといえるのではないだろうか。このような滑稽な感情のせいで溜めこんだ鬱憤や憂鬱で自他を破壊するようなことがあってはならない(この発想もまた人間らしい謎の非合理な「優しさ」や「共感」などを根拠とする)が、同時にこのような滑稽な感情こそが人間らしさなのだ。滑稽なのだ、我ら。

そして、あなたも電気羊の夢を見る

 「電気羊」をめぐる主人公の行動、インドネシアにおける友人知人の行動は、その世界の常識を実感できない外部の人間にとって滑稽な行動と認識される。少なくとも私は電気羊を見たこともなければ、存在するとも思っていない。私にとって全く未知の、価値のないものに、必死でしがみつこうとしている主人公の一挙一動は異質で愉快だ。しかし、頭のどこかでこの滑稽さは現実世界の人間のパロディであることに気付いた時の悪寒は、いまでも私の世界を蝕んでいる気がする。あるいは、その浸食は、認識の相対化という浄化なのかもしれない。

 自分にとっての未知の価値観とそれに依拠する他人の行動に関して、すぐさま自身の価値観を相対化して、共感したり、理解することは難しい。そもそも人間の行動に、生命に、真の意義や理由が明確に公平に与えられたことはない。それは、宗教だったり、神話だったり、周囲の人間から、与えられたり、教えられたりする。あるいは自分自身で決めるというひともいるだろう。この価値観の生成過程から、私たち人間が全人類共通の価値観を共通の対象に対して持つことはほぼ不可能に近いということがわかると思う。

 それでも、いつかあなたは「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」という主人公の危機感を共有するはずだ。例えあなたが「電気羊」を見たこともなければ、その存在を信じていなかったとしても、彼にとっての電気羊の重要さを理解し、その危機感に共感することができる。その「電気羊」に心当たりがある人は、少なくないはずだ。

 私、あるいはあなたが、一見して全く未知の価値観に遭遇した時、それがどんな価値観であっても、面白いとは思っても、決してそこに優劣の基準を持ち込むことはできないし、否定することもできない。あなたの価値観も、所詮は「電気羊」であり、それが「人間らしさ」なのである。そして今日も私たちは、人間らしく「電気羊」の夢をみている。

*1:見え・見栄・見得 とは:〔動詞「見える」の連用形から。「見栄」「見得」は当て字〕
①見た目。外見。みば。みかけ。体裁。 「 -を飾る」
②人の目を気にして、うわべ・外見を実際よりよく見せようとする態度。 《見栄》 「 -でピアノを買う」 「 -坊」
③歌舞伎の演技・演出の一。劇的感情が高まったとき、俳優が、一時その動きを静止してにらむようにポーズをとること。 《見得》[大辞林 第三版:見え・見栄・見得(みえ)とは - コトバンク]
この記事では、①を含む②の意味として「見栄」とします。

*2:こうしたお金の使用詳細についてはっきりしたことはわからないのが常である。そもそも「お金」という形で手を離れてしまった場合、例えばそれが何十年か後に「同じ金額のお金」として戻ってきたとして、それそのものが戻ってきたわけではないのだから。

Pop mie is my best friend【Pop Mie Meaty Soto Ayamを食べてみた。】

こんにちは!調査渡航の準備で一人寂しくホテル暮らしをしている私です!

独りでホテル暮らし・・・・怖がりな私は、夜出歩いたり、夕飯のお誘いを受けることに大変な抵抗があります!!

そんなときの大切な友達・・・・・

f:id:gulamerah:20170901145011j:plain

Pop mieというカップラーメンの話を記録したいと思います。

ただただインスタントラーメンを開けて食べるだけの記録です。

 Pop mieとは

 PT. Indofood CBP Sukses Makmur Tbk.が発売しているカップインスタント麺の商品名です。

1987年から発売されています。2010年にロゴを大きく改変し、2017年(今年!)には本物の鶏肉、牛肉をパルチパックで封入した新商品を展開し始めました!

商品スローガンは、「"Puasin Laper LoePuasin Muda Loe"./君のお腹を簡単に満足させてあげる!(Puas は満足、Laparは空腹、Mudaは簡単に、Loeはかなり親密な感じの「君」)」

発売元であるIndofoodが展開するIndomie(Pop mieも派生商品)というインスタント麺はインドネシアのインスタント麺の7割のシェアを占めています。

じつは、1990年からナイジェリアなどの海外展開を開始しており、いまやオーストラリア、アジア、アメリカ、ニュージーランド、フィリピン、カナダ、ヨーロッパなどでも展開されているようです*1すごい大きな企業だったんですね・・・。

ちなみにIndomieとは、Indonesiaの略語であるIndoとインドネシア語で麺を意味するMieの造語です。インドネシアの麺!という意味ですね。

商品展開

インドネシアの麺といっても馴染みのない人ですと、日本のカップ麺と何が違うのよーって思われると思うので、以下商品展開一覧を日本語訳しつつ載せておきます。

  • Pop Mie Mi Goreng Spesial(ミゴレンスペシャル/インドネシア風焼きそば)
  • Pop Mie Mi Goreng Pedas(辛いミゴレン)
  • Pop Mie Rasa Ayam Bawang Spesial(鶏肉玉ねぎ(ニンニク?)炒め風味)
  • Pop Mie Rasa Baso Spesial(肉団子スープ風味)
  • Pop Mie Rasa Ayam(鶏肉味)
  • Pop Mie Rasa Baso(肉団子スープ風味)
  • Pop Mie Rasa Soto Ayam(ソトアヤン/鶏肉スープすっぱめ、香辛料が効いていておいしい)←My favourit
  • Pop Mie Rasa Kari Ayam(鶏肉カレー味)
  • Pop Mie Rasa Kari Keju(チーズカレー味)
  • Pop Mie Rasa Kari Susu(ミルクカレー味)
  • Pop Mie Meaty Soto Ayam(リアルお肉入り、ソトアヤン味)←今回の記事の主役
  • Pop Mie Meaty Kari Sapi(リアルお肉入り、牛肉カレー味)
  • Pop Mie Mini Rasa Ayam Bawang(鶏肉玉ねぎ炒め風味のミニサイズ)
  • Pop Mie Mini Rasa Baso Sapi(牛肉団子スープ風味、ミニサイズ)
  • Pop Mie Mini Rasa Soto Mie(スープ麺、ミニサイズ)

ざっとこんな感じでしょうか。最近では地域の伝統料理などの味を取り入れ、商品展開していることもあります(例・Coto Makassar、スラウェシ・マカッサルの伝統料理、牛肉モツスープ)。日本でも各地域の有名ラーメン店のカップ麺展開などが見られますが、それに近いですね。

もちろんすべてハラル(ムスリム向け商品)ですので、豚由来成分、アルコールなどは入っておりません。

Pop Mie Meaty Soto Ayamを食べてみた。

Pop mieについて調べたら意外と前置きが長くなってしまいました・・・。

本題のPop mie食べてみたです。

今回食べるのは、なんと2017年に新発売したというリアルお肉入りソトアヤンPop mieです!!(調べるまで今年の新発売だって知らなかった。確かに始めてみたんだけども)

f:id:gulamerah:20170901145142j:plain

右がPop Mie Meaty Soto Ayamで、左のは普通のPop mieです。カップの大きさもかなり違います。内容量も約70gと約110gなのでボリュームみぃになっています。ハラルマークが右上の方に小さく印刷されていますね。値段もRp.4.500(40円くらい)とRp.11.000(100円くらい)なので、通常の倍以上とかなりお高めな値段となっています。

f:id:gulamerah:20170901150152j:plain

 蓋を開けると、フォークと加薬が入っています。

このフォーク、初めてPop mieを食べた時かなり驚いた記憶があります。しかしその時もホテル暮らしをしていた私は、カップ麺を買った後に箸もフォークもなく絶望していたところだったので、神の恵みかと思いました。アッラーハンブリラー!

f:id:gulamerah:20170901150208j:plain

 そしてこれが今回の主役ですね!リアル鶏肉!後入れ(Sudah Matang)と書いてあります。なので、通常と同じ加薬(粉末スープとチャベ(唐辛子)を先に入れて、お湯をいれます。

f:id:gulamerah:20170901151638j:plain

チャベは最初の内は入れないでいたのですが、最近は多少辛くないとおいしいと思わなくなってきたので、全部入れます(そんなに辛くないです)。

f:id:gulamerah:20170901154224j:plain

あとは、待つだけ!たぶん3分くらい!蓋の上にパウチを乗せたのは日本のカップ麺がそういう指示をよく出しているので癖です!あと、付属のフォークを蓋にぶっさして止めるのは、小学校の頃駄菓子屋のおばちゃんがブタメンにやっていたので覚えました!

ちなみにインドネシアでもWarung(屋台)でPop mieを食べるとこうやって出してくれます!人間の知恵!万国共通!

そして、麺ととスープができあがったら、パウチのリアル鶏肉をいれます!

f:id:gulamerah:20170901154336j:plain

なんでだろう!この写真、すごくおいしくなさそう(Indofoodさんごめんなさい)!!でもおいしいよ!!!! 

 まとめ

  • Pop mieの歴史は意外と長く、発売元のIndofoodは海外進出しまくってるグローバル企業だった。アフリカでも食える。
  • Pop Mie Meaty Soto Ayamは、2017年発売の新商品だった。
  • Pop mieに入ってる付属の使い捨てフォークは神。
  • Pop mieおいしい。家にいるときは鍋でつくる感じのIndomieをよく食べています。こちらもおいしいよ!
  • Pop Mie Meaty Soto Ayamは、おいしい、若干お高いがボリュームがある。パウチの鶏肉もおいしい!

以上、私のボッチ暮らしにおける親友Pop mieの記録でした。

Selamat Hari Kemerdekaan!インドネシア独立記念日!

こんばんは!先週の8月17日は、インドネシア独立記念日でした。

前回の記事で、毎年何となく楽しめない・・・と心境を吐露した私です。

gulamerah.hatenadiary.com

しかし、書き出してしまったからなのか、長期滞在故にお祭りの雰囲気に馴染んでしまったのかわかりませんが、今年は個人的にとても楽しい独立記念日(とのその後)を過ごすことができました。

今年は、特に独立記念日的なお祭りに出むかず、独立記念日セールを狙ってモールにショッピングしに行きました!セールを狙っていったのですが、そこでもやはり面白いことがありましたので、記録しておきたいと思います(なぜならば先ほどその「面白かったこと」を忘れていた、つまり思い出したのでこれはやばいと焦ったので。)

独立記念日(8月17日)が近づくと街が素敵に装飾される

独立記念日が近づくと街のあちこちでインドネシア国旗である赤白の旗がはためきます。本当に道中に、そこら中にはためきます。住宅街、ガソリンスタンド、小さな裏路地にまで、赤白の国旗!

f:id:gulamerah:20170822234342j:plain

f:id:gulamerah:20170822234438j:plain

f:id:gulamerah:20170822234531j:plain

路地裏でドッチボールしている子供たち。

実はこの日、台湾人の友達とめっちゃ迷って裏路地に入り込んでしまったのですが、後ろからついてきた自転車の男の子に「迷ってるー迷ってるー」って言われた。

でも、迷い込んだおかげで、こんな素敵なものを見つけました。

f:id:gulamerah:20170822233854j:plain

切り絵になっていて、四面で絵が違うという素晴らしいランプ!

でもこんな素敵なのに、すごい誰も通らないところにひっそりと飾られていた不思議・・・。ちなみにジャワには影絵(のお芝居)の文化、バヤガンという芸術が深く根付いているので、そうした影響もあるのかもしれませんね。それにしても、素敵!

ちなみに、Go-jeckというOjeck(バイクタクシー)のアプリケーションも、独立記念日インドネシア72周年使用のスタートアップページに模様替えしてました。このアプリは、ラマダンの時もラマダンバージョンのスタートページを用意していましたので、まめな企業だなぁと感心します。

f:id:gulamerah:20170822233757j:plain

実地の店舗だけでなく、オンラインショップやこうしたアプリケーション、ガルーダインドネシアのオンラインページなんかも、独立記念日インドネシア72周年を記念して、いろいろなディスカウントを行っています。

ちなみにこうしたディスカウントは、独立記念日(8月17日)から一週間ほど続きます。

もし機会があったら、この時期にインドネシアでお買い物をしてみてはいかがでしょうか、お得かもしれません。

独立記念日セール!

そして今年は独立記念日セール!を狙ってモールに行ってきました。

モールも素敵に装飾されています。

f:id:gulamerah:20170822233755j:plain

そして、いろいろ見て回った結果、こちらのブラウスを半額で手に入れました。

かわいいー❤❤定価だったら即決できない値段―!半額なら、即決!

f:id:gulamerah:20170822233853j:plain

モールの中でもイベントが開催されていて、こちらのステージではかわいい子供たちが歌を披露していました・・・・。かわいい・・・・モール中に響くあどけない歌声かわいすぎた・・・・。

f:id:gulamerah:20170822233857j:plain

1945年8月17日の「声」

そして、帰りがけモールに入っているスーパーに寄った時のことです。

前回の記事に紹介した「Indonesia Pusaka」が、店内放送で頻繁に流れていたのですが、それ以上に面白い「声」を聞くことができました。

1945年8月17日に当時インドネシアの大統領であったスカルノ大統領の「独立宣言」を読み上げる声が、モール中に響いたのです。

youtu.be

YouTubeで調べたら歌の部分まで出てきましたので、どうやら、これで一つの歌のようです。冒頭のスピーチが、インドネシア独立宣言を読み上げるスカルノ大統領の声ですね。

不思議な感じがします。玉音放送の音質にそっくりです。まぁ、その二日後の録音ですから、同じに聞こえておかしくないのですが、この時代の「声」は、特に日本のものは、私はやはりどうしても後ろめたい、あるいは苦しいイメージがありますので、心が高揚するのは本当に不思議な感じがしました。

まとめ

  • インドネシア独立記念日が近づくと待ちが紅白お祝いモードになる
  • セールたのしい、半額とか!BUY GET 1FREEとかある
  • スーパーで72年前のスカルノ大統領の声を聴いた
  • なんだかんだで、今年は今までで一番楽しんだ
  • 自分の想いを書くって大事
  • Selamat Hari Kemerdekaan!インドネシア独立記念日おめでとう!72周年おめでとう!

独立記念日と終戦記念日

f:id:gulamerah:20170822233854j:plain

 こんにちは。もうすぐインドネシア独立記念日(8月17日)ですね。

 インドネシアに夢中になってからずっと心に溜めていたことをひとまず書き記したい、という思いでこの記録を書きました。まぁ、一個人の記憶の記録として、この夏の記憶として、残すことができたらと思います。

 まずは、インドネシア独立記念日に歌われる私のお気に入りの歌についてです。

Indonesia Pusaka

 インドネシアのラジオなんかを聞いていると、この時期とてもよく聞く歌があります。それは、「Indonesia Pusaka」という歌で、インドネシアの第二の国家的な歌です。

www.youtube.com

 とても綺麗な旋律で、私も思わず口ずさみたくなってしまう歌なのですが、何を謳っているかというと、ようはPusaka/父祖伝来のインドネシア。母国、愛しのインドネシア、私の生まれた場所!というような内容です。

 素敵な旋律は、ロックにしても素敵です。

youtu.be

 このようにいろいろなバージョンがあるので、様々なバージョンのPusaka Indonesiaがラジオからひっきりなしに流れます。個人的にとても好きなので聞いていたら、寮のお手伝いさんに「なぜPusaka Indonesiaを聞いてるの」と笑われました。国歌ではないのですが、もはや国歌よりもよく聞くナショナルソングと化しているので、それを好んで聞いている外国人という構図は少しおかしく感じられたようです。小学生なんかがイベントなどで合唱したりもする曲です。

 独立記念日である8月17日には、インドネシア各地でインドネシアの独立を記念し祝う催し、お祭りが開催されます。私も一度参加したことがあります。

独立記念日終戦記念日

 しかし8月の初め、この時期に「お祭り気分」になる違和感というものを私は毎年感じます。インドネシアが独立した記念日、お祭り気分になるには充分な理由です。インドネシアが大好きならなおのこと、お祭り気分になって然るべきです。なのに、なぜかしら。心から楽しめない。そこには、大きく分けて二つの理由がありました。

 まず、私の中の夏が、お祭り気分になることに違和感を感じるのです。なぜならば、日本に毎年やってくる8月の初旬が「お祭り気分」からほど遠い雰囲気に包まれているからです。

 日本の8月初旬と言えば、テレビやラジオでは「戦争特集」が良く流れてきます。戦争は良くない、辛い、悲しい、二度と起こすまい、そういった決心を新たにする時期です。ヒロシマナガサキに続き、「終戦記念日」と、第二次世界大戦の悲惨さを追憶する時期です。そんな薄暗い気分が、うだるような暑さとセミの喧騒、麦茶の中に入れた氷の冷たさと共に、8月の初旬、日本の真夏には染みこんでいる。少なくとも私の中では、日本の真夏に「戦争の悲惨さ」が染みついています。

 でも、8月のインドネシアは、新たな第一歩、始まりを記念し祝う雰囲気になります。日本の悲惨で苦しく、悲しい雰囲気とは全く異なります。

 そして、そもそもインドネシアってどっから独立したのでしょうか?インドネシアが独立する直前、インドネシアを「占領」していたのは、「日本」です。つまり、インドネシア独立記念日は、「日本」からの独立を祝う日でもあるのです。

 これが、私の感じる第二の違和感。というより、息苦しさといった方が正しいかもしれません。「日本の占領から解放されたインドネシア」、この歴史的事実が、インドネシア独立記念日に際して心からお祭り気分になることを阻害するのです。政治的にいろいろな見解があることを承知していますが、それでもなお事実として日本軍がインドネシア独立の直前までインドネシアにいたことは確かですし、日本の「終戦記念日」の二日後がインドネシアの「独立記念日」なのです。

そして、コインは投げられた

 私にとって、「終戦記念日」と「独立記念日」は、一枚のコインに描かれた模様のようでした。コインの裏側、あるいは、表側、どちらにせよ、片側に足を付けて立っていたら決して見ることのなかったはずの景色を私は見ている。そんな気分になるのです。

 そして、双方に想いを寄せることができる自分を大切にしたいと思う。しかし、同時に、双方の景色を見たあとで、もう一つの違和感を発見する。その違和感は最近の日本の「戦争」追憶が、「被害者」の記憶に偏っていることに起因します。日本の戦後における無責任の構造に関しては『敗北を抱きしめて』*1などが指摘していますが、現在の日本社会における戦争記憶の多くは「殺された罪なき人びと」、主に「日本人」に関する記憶であり、無責任を通り越して被害者としてのイメージを創り上げているような気がします。インドネシアが日本の敗戦によって日本から解放され、その二日後に独立した、という事実を目の当たりにした時、私は自分がどれだけ、かの戦争における日本の加害行為を認識していないのかということを知りました。この時期に語られる「戦争」に彼らが登場してこないことを踏まえると日本社会は、日本の「加害」に関する戦争記憶を恐ろしい速さで忘却した(あるいは、しようとしている)のかもしれないとすら思います。現日本社会における戦争記憶の中に日本の「殺した」「傷つけた」記憶を見聞きすることは、あまり多くないと思います。多くの「日本人」が殺され、傷つけられたのと同じくらい、多くの人が「日本人」に殺され、傷つけられた。にもかかわらず、現日本社会の戦争に対する態度は、あまりも逃避的すぎやしないか。時にその被害者意識は国までもを「加害者」とし、かの戦争における「加害者」としての日本人の行為の責任を負わせようとする。国を理由にかの残虐な行為、殺戮に対する責任を放棄して然るべきとするならば、近年の戦争の多くに対して、誰一人として責任を負わずして良しということになるでしょう。

 また、日本の戦争に対するこうした被害者意識は、簡単に加害への根拠となる発想を生み出すことにも不安を覚えます。つまり、やられる前に、やっちまえ、となるわけです。「戦争の被害者になりたくない」という反戦思想は、被害者にならないための加害を正当化する好戦的な思想へと、いとも簡単にひっくり返ります。戦争における加害を忘却した結果、加害に対する反省や自戒、自制というものを学ぶ機会を失い、「戦争」を繰り返すわけです。物事の一面的な理解は、誤解であり、そこに囚われる態度はある種の逃避である。コインの片側に安住してはならないのです。

 初めて独立記念日インドネシアで過ごしたとき、私は、インドネシア独立記念日に参加してお祝いすることが、許されないようなそんな気分になりました。しかし、独立記念日のお祭りに連れていってくれた友人は、「歴史的にいろいろあったけど、それは歴史の話、今の私たちは、違う」と言いました。この言葉を素直に受け取り、この息苦しさを払拭することは、私にはまだできません。払拭すべきことなのかも、正直わからないです。ですが、彼の言った「今の私たち」こそが、どうあるべきか、それを考えることはできる。

 そんな想いを抱きながら、今年も8月17日は、大切な友人と大好きなインドネシアの誕生を祝いたいと思います。

 

インドネシア、大好きよ、独立記念日、おめでとう。

Indonesia, Selamat Hari Kemerdekaan, Saya selalu jatuh cinta ke Indonesia deh!

 

 

*1:ジョン・ダワー著『敗北を抱きしめて<上><下>』2004年/2001年旧版/1999年原著"Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War ll"

おしりがからいと熱が出る【Nasi Udok Lombok】

こんにちは!先日からお腹の調子がすぐれません。

とてもお尻がからいです。

このお尻のからさ、お腹の調子の悪さ、何が原因か思い当たる節があります。

それは先日食べた、Nasi Udokと言われるご飯です。

店の前で食べてもよいのですが、お持ち帰りにしたいって言うと紙でぐるぐる巻いてビニール袋に入れてスプーンつけてくれます。クレープみたいです。

お値段は、RP.13.000(約120円)。一食分の値段として、このご飯の量を考えると少しお高めです。

f:id:gulamerah:20170807123825j:plain

この茶色いのは卵で、唯一この味付け卵は辛くないのですが、その他アボン(しっとりふりかけ的な味の濃い魚のほぐしだったり鶏肉のそぼろ的な物)がめちゃくちゃ辛い。

f:id:gulamerah:20170807123750j:plain

ご飯も結構多めに入れてくれますが、私はこのアボンが辛すぎて一度では食べきれませんでした。ご飯が圧倒的に足りません。

f:id:gulamerah:20170807124246j:plain

そのため、その日の夕飯もこのNasi Udokのアボン(残り)を新たに炊いたモロコシご飯と一緒に・・・・。

f:id:gulamerah:20170807124351j:plain

永遠に、おかずが残ります・・・・。

 

そしてこの3日後、お尻が辛くなってきます。

食べ物とお尻の話を一緒にしてはいけない気もするのですが、仕方ありません。

なにせ、おしりがからいのですから・・・。

お尻が辛い、とはどんな状況かというと、つまり辛いもの食べた後にうんこも辛くなって、お尻が辛いうんこのためにひりひりするという状況ですね。

お腹の調子もすぐれませんし(辛いし痛い)、なんか昨日は38度越えの熱が出たし(辛くて熱くなった?)、さっきもお尻は辛かったです(痛い)。

ちなみに、このNasi Udok、そんなに辛くないやつもあるらしいです。

私が買ってきた奴は、Nasi UdokNasi Udok Lombok、ロンボック地方のNasi Udokだったらしくて、寮のお手伝いさんたちも、「それは辛いわよー!!!美味しいけど!」って言っていたくらいです。辛いものになれている彼女達が特別辛いというくらいですから、相当な辛さだったのでしょう・・・。でも、おいしかったんだもの・・・・食べちゃったわよ・・・。お尻が辛くなったわ・・・。辛さの要因は、もちろんCabe(唐辛子)です。そういえば、渋谷にCabeというインドネシア料理屋さんがあるらしいです。いったことないですけど。

以上、このお尻が辛いという感想も含めて、先日食べたNasih Udok Lombokについての記録でした。

 

辛い食べ物はおいしいですけど、食べる際にはぜひお腹とお尻に気を付けてください。