犬が吠えども、キャラバンは進む。

Biar anjing menggonggong, kafilah tetap berlalu./インドネシアでひとを研究しているある院生の備忘録。

『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』から考える「見栄」の人間らしさについて

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックの作品の一つ、非常に有名なSF小説です。1968年に初版原作(英語)が出版され、その一年後1969年には日本語訳が出版されています。原題や邦訳題のパロディなどが多く見られることからもSF作品として一般的にかなり人気の高い作品だということがわかります。むしろパロディから原作を知ったというひとも多いのではないでしょうか。私もその一人です。私は、初音ミクというボーカロイドを使用した作曲者ささくれPのアルバムタイトル「ボーカロイドは不死鳥の夢をみるか」から本作品を知りました。

 今回は、この小説に描かれる「見栄」、そしてインドネシアで体験された「見栄」に関する話などから、人間らしさとしての「見栄*1を考えてみたいと思います。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか』に描かれる「電気羊」と人間の「見栄」

 この小説の主人公が生きる荒廃した地球では「生物」がとても珍しく、高価なものとなっている。それをペット愛玩動物として所持するということは、その購入費、維持費を踏まえると莫大な無駄金あるいは余裕の証明である。しかし、「電気羊」はそういった本物の生物を所持できない輩が所持する偽造品なのである。つまり、「電気羊」は「生物を愛玩具として所持し、莫大な無駄金の消費をしている人間であると周囲を欺くための製品」なのである。なぜそこまでして周囲を欺く必要があるのか、その根拠となる感情が見栄である。自分の実像、現実とは異なる虚像の実現を手助けする製品、それが「電気羊」なのである。見栄という隙間のような人間感情に付け込んだ巧妙な製品である。修理の際は「動物病院」と外装を偽ったトラックで回収に出向いてくれる手の込みようである。

 主人公の妻は、「電気羊しか持てないような私たち」とか、あるいは電気羊しか買えない夫を「甲斐性がない」といった感じで責め立てたりする。しかし、電気羊だって安くない、壊れた時なんかは周囲にばれやしないかと気を揉んだりする。見栄を張るがために問題が増えているというのも大変馬鹿らしく、興味深い。これではまるで「悩みの種」を買ったようではないか。虚像を取り繕うのも楽じゃない、見栄を張るのだって楽ではない、それ相応の努力と金が必要なのである。

インドネシアのある村における「見栄」※友人談

 私のある友人は、知り合いにお金を貸した。なにか仕事、あるいは事業に関する借金であったようだ。しかし、結論から言うと、貸した金は戻ってこなかったし、一部は事業に使用されることなく、レバラン休暇の際に着る衣装代になっていたらしい。

 新しい服代に友人が出資したつもりで出した金が使われたかどうかはさておき*2、友人はひどく消沈しているようだった。お金が返ってこないということよりも、異なる目的で消費されてしまったということに対して憤りを感じているようだった。一応、新調された服を見て知人を問い詰めたらしいが、「去年と同じ服では恥ずかしい」という答えが返ってきたらしい。まぁ、要するに見栄である。個人的にとはいえ事業資金として借りたはずの金を服代に回さなければ服を新調できない経済状況で、あえて服を新調するという虚像の実現である。現実にそぐわない虚像の実現に、友人の金が使われた(と友人自身は感じている)のである。

 友人も大金持ちなわけではないので、事業資金などというまとまったお金をかき集めるのに多少苦労していた。にもかかわらず、というわけだ。

 しかし、この話にはもうひとり見栄を張った人がいる。それは金を貸した友人である。苦労しなければ出せないような額の金を貸す、というのもまた見栄である。なければないと、貸せないと現実のままに対応すればよいところを、あえて貸したわけだから、無意識に「それぐらいの金を貸せる余裕のある人」という虚像を実現するという見栄を張ったわけである。そしてその見栄が、その後の憤りを増幅させている気もする。

「見栄」という人間らしさ

 見栄というのは、なんと滑稽であろうか。見栄とは虚像の実現願望である。これが理想の実現願望であったら、それは人生の指針になりえるような重要な願望である。虚像の実現と理想の実現は一体何が異なるのだろうか。

 虚像と理想、似通ってはいるが、やはり全然違う。それぞれが実現した後に現在する状況の違いは、明らかである。虚像は実現しても虚像のままであり、理想は実現すれば現実になる。「見栄」と言われてしまうような滑稽な実現努力は、おそらく虚像の実現努力のことを指している。虚像と理想を見間違えるひとは多い、虚像に踊らされないようにしたいものだ。多くの人がその人生の大半を虚像の実現のためにあくせく努力をしているのを見ていると、吐き気がしてくる。虚像と理想の取り違えは、周囲にも良い影響をもたらさないので早急にやめていただきたい。

 しかし、『アンドロイドは電気羊の夢をみるか』において描かれる「見栄」は、人間らしさの象徴である。「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」という象徴的な問いは、つまり、人間らしくないアンドロイドが、「電気羊」という見栄を根拠とした価値観によって作製された物体に対して、それを所持したいという願望(夢)を抱くのか?という問いである。

 読者は、前半で主人公の電気羊とそれに纏わる一連の行動を異世界の「謎の価値観」を笑いながらも、後半になるにつれこの非合理的な生産性のない滑稽な願望に人間らしさという価値を認めることになるだろう。そして、最後に発せられる「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」という主人公の問い、そこから理解される人間らしさに関する危機感に共感するのである。人間らしさ(見栄を根拠とした電気羊に対する所持欲という非合理的な願望、価値観)というものが、アンドロイドという人間らしくなかったはずの何かによって再現された場合、私たちの「人間らしさ」はもはや人間だけのものではなくなるのだ。アンドロイドが見栄を張る、その滑稽さは私たちにとって全く愉快ではない。その非合理性を、譲るわけにはいかないのである。

 そう考えると友人がインドネシアで体験した「見栄」による一連の出来事は、友人の納得できずに不快な気分なったという彼の感情を含めて、とても人間らしい話なのではないだろうか。私たちは、その人間らしさのせいで日々七転八倒しながら生きている。不要な鬱憤を溜めこんだり、物に八つ当たりして壊したり、憂鬱になったりする。人間らしさというと(これもある種の人間の見栄で)非合理的な「優しさ」とか「幸せ」とか俗にいう「道徳」を論いたくなるが、しかし、「見栄」のような滑稽な感情も、人間らしさといえるのではないだろうか。このような滑稽な感情のせいで溜めこんだ鬱憤や憂鬱で自他を破壊するようなことがあってはならない(この発想もまた人間らしい謎の非合理な「優しさ」や「共感」などを根拠とする)が、同時にこのような滑稽な感情こそが人間らしさなのだ。滑稽なのだ、我ら。

そして、あなたも電気羊の夢を見る

 「電気羊」をめぐる主人公の行動、インドネシアにおける友人知人の行動は、その世界の常識を実感できない外部の人間にとって滑稽な行動と認識される。少なくとも私は電気羊を見たこともなければ、存在するとも思っていない。私にとって全く未知の、価値のないものに、必死でしがみつこうとしている主人公の一挙一動は異質で愉快だ。しかし、頭のどこかでこの滑稽さは現実世界の人間のパロディであることに気付いた時の悪寒は、いまでも私の世界を蝕んでいる気がする。あるいは、その浸食は、認識の相対化という浄化なのかもしれない。

 自分にとっての未知の価値観とそれに依拠する他人の行動に関して、すぐさま自身の価値観を相対化して、共感したり、理解することは難しい。そもそも人間の行動に、生命に、真の意義や理由が明確に公平に与えられたことはない。それは、宗教だったり、神話だったり、周囲の人間から、与えられたり、教えられたりする。あるいは自分自身で決めるというひともいるだろう。この価値観の生成過程から、私たち人間が全人類共通の価値観を共通の対象に対して持つことはほぼ不可能に近いということがわかると思う。

 それでも、いつかあなたは「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」という主人公の危機感を共有するはずだ。例えあなたが「電気羊」を見たこともなければ、その存在を信じていなかったとしても、彼にとっての電気羊の重要さを理解し、その危機感に共感することができる。その「電気羊」に心当たりがある人は、少なくないはずだ。

 私、あるいはあなたが、一見して全く未知の価値観に遭遇した時、それがどんな価値観であっても、面白いとは思っても、決してそこに優劣の基準を持ち込むことはできないし、否定することもできない。あなたの価値観も、所詮は「電気羊」であり、それが「人間らしさ」なのである。そして今日も私たちは、人間らしく「電気羊」の夢をみている。

*1:見え・見栄・見得 とは:〔動詞「見える」の連用形から。「見栄」「見得」は当て字〕
①見た目。外見。みば。みかけ。体裁。 「 -を飾る」
②人の目を気にして、うわべ・外見を実際よりよく見せようとする態度。 《見栄》 「 -でピアノを買う」 「 -坊」
③歌舞伎の演技・演出の一。劇的感情が高まったとき、俳優が、一時その動きを静止してにらむようにポーズをとること。 《見得》[大辞林 第三版:見え・見栄・見得(みえ)とは - コトバンク]
この記事では、①を含む②の意味として「見栄」とします。

*2:こうしたお金の使用詳細についてはっきりしたことはわからないのが常である。そもそも「お金」という形で手を離れてしまった場合、例えばそれが何十年か後に「同じ金額のお金」として戻ってきたとして、それそのものが戻ってきたわけではないのだから。